左斜め下を向いている人
桜もとっくに盛りを過ぎ、葉桜の季節になりましたね。わたしが毎朝通る道にも桜が咲いているのですが、通るたびに花びらが少なくなっているように思います。で、「今年も花見行けなかったなあ…」と不甲斐ないような気持ちになるわけです。
わたしは今年も花見に行けなかったわけですが(というより一緒に行く友達がいなかった)、ニュースを見る限り、今年もすごい数の人が花見に行かれたようですね。皇居にはたくさんの花見客が集まり、インタビューを受けていたおばさん…いや、ミドルレディーも「桜より人を見に来たみたい」と笑っていました。花見ならぬ人見。わたしなら気が狂って屋台を襲っちゃいますね。
これまでが、前置きの前置き。これからが本当の前置きです。
「春よ~遠き春よ~♪」、「さくら~さくら~今咲き誇る~♪」、「さくら~のは~なび~らち~るた~びに~♪」、「桜の季節す~ぎたら~遠くの町に行くのかい~♪」……今ざっと思い浮かべただけでも、桜ソングというのはたくさんあります。そしてその多くが、別れの歌でもあるわけです。
そういえばいつだったか、学校の授業で春の和歌をやったことがありました。その中で今でも覚えているのは、
「もしこの世に桜がなければ、春の心はもっとのどかだったろうに…」
というもの。今調べたら在原業平の歌らしいです。とにかく、それを聞いた当時のわたしは「なるほどなあ」と思いました。なるほど確かに、桜って、見てると何故か寂しい気持ちになる。そういうわけで、昔からわたしは、四季の中で一番春が嫌いなのです。
ふんふんなるほど、はるか昔からこの21世紀の現代まで、「春の切ない気持ち」ってのが共通らしいのは分かった。でも、じゃあなんで?って話ですよ。毎年毎年意味も分からず切ない気持ちにさせられては、こっちもたまったもんじゃないですよね。
調べてみると、例の在原業平の和歌には返歌があって、当時その場の誰かが
「桜は惜しまれて散るからこそ素晴らしいのだ。世に永遠なるものは何もない」
と返しているようです。
そういやどこかで聞いたことがあります。えら~い仏教の教えには、「万物は移り変わり、やがて滅びる」というものがあるらしい。いわゆる「無常観」ってやつですね。春が切ないのは、やっぱこれが関係してるんだろうなあ。ほら、桜ってすぐ散るし。わたしたちはいつもその「無常」を忘れて生きてるけど、咲いては散る桜を見て、ふとそれを思い出すのかもしれません。
言いたいことより前置きの方が長い、というのがわたしの文の特徴なのですが……
わたしの希望の桜も、ついにこの春散ってしまいました。そう!西島秀俊さんのフライデーです。
これに対してのわたしを含めたファンの人たちの反応は、千差万別でしたよね。「ショック!」という人もいれば「秀俊が幸せなら…」という人もいて、はたまた「コンパニオンやってる西島秀俊がいたら最高だなあ」というものまで。
西島さんと言えば、わたし、彼の横顔が大好きなんですよね。綺麗だけどどこか影があって、壊れそうな儚さがあるんです。これも例に漏れず「無常」と関係がありそう。わたしの情緒は、どうも「無常」の力に操られてるようです。
キーワードは「無常」だ。
そう思ってキョロキョロと"人見"をして、気づきました。
顔立ちとかに関係なく、「左斜め下を向いている人」はとても美しい。人間として美しいんです。憂い気に目が伏せられて、まつげの影が目の下におちて、耳から肩にかけての曲線が、より洗練される。その人は、振り向くのをためらってるようでもあるし、斜め下の何かを確かめているようでもあるし、汚いものから目をそむけてるようでもある。もう片面の顔が見えるとその真意が分かりそうなものだけど、鼻の影が邪魔をして、こちらからははっきりと見えない。
で、その人がこちらを向いて笑ったりすると、ふっと見惚れてたのを自覚するんですよね。
先ほど、桜が切ないのは散る「無常」からだと書きましたが、少し付け加えます。桜が切ないのは、散るのが分かってて、でもそれを止めようがないからじゃないのかな。
左斜め下を向く顔は計らずも、誰もが持つ薄暗い、「消えてしまいたい」という気持ちの片鱗が表れてしまうんです。でもこちらがそれをどうにもできないから、どうしようもなく惹きつけられるんですよ。ほんとに、計らずもね。
というわけで、好きな人ができました。なんとなく体重を気にするようになったのですが、そのあまりの数字に、左斜め下に目を背けてしまいます。ああ、無情。