よせてはかえす

自己紹介って、どうすればいいんだろう……

最近そのことばかり考えてます。みなさんはもう、自己紹介は済まされましたか?わたしはこの時期になると、いろんな所で自己紹介をさせられるんですよね。オフィシャルな場面でもそうでなくても、自己紹介自己紹介自己紹介、そればっかり。聞いては言い聞いては言いの繰り返しで、まったく、うんざりです。名前が分かればそれでいいじゃない、と思ってしまいます。出身地とか、趣味とか、好きな食べ物とか、そういうのはのちのち判明するのがおもしろいんじゃないか。

 

ブログでもおんなじ理由で、書くことに困ってます。ぶっちゃけ、あんまり素性を明かしたくないんですよね。わたしはこういう身分のもので、普段はこういう生活をしていて、家族はどんなで、どんな人生を歩んできて……なんて、別にどうでもいいし面倒臭いだけだよ。

でも、ブログはそういうところを明かさないと成り立たない面がある。なんたって、日記ですから。ある程度詳細を明かさないと書けないじゃないですか。毎回説教みたいなことを書いてるのはそのせいです。まあ毎度のように、今回も書くんですが。

で、いろいろと悩んでます。だってこのブログ、あんまりリラックスして読めませんよね?自分のことをもっともっとさらけ出せたら、書くネタもぐーんと広がるんじゃないのかなあって。でも、それってなんだか、個人的にダルい。

 

そもそも、このブログを始めた目的は「筆力の向上」ですからね。ブログを始める前、いろいろと書く機会がありまして、いざ筆をとってみたら

「なんだこれ!?まったく言葉が浮かばねえ~!!」

状態になってて。言うならば年寄りのボケ防止みたいなものですよ、このブログは。

まあ、「インターネッツの海に何時間もかけて独り言を垂れ流すのもアレだなあ…」と思ったからガッツリTwitterで宣伝してるけどね。毎度すんません。文字では謝ってるけど、一言感想を貰えたときは素直に嬉しい。生きててよかったな~って思う。

あ~っ、考えれば考えるほど分からん!どうするのが一番いいのか分からねえ。

 

これまでの人生でも、こんな風なジレンマを抱えたことは多々あります。今回やつの一つ前は、「痩せたいけど、一定量食べないと奴が出てこない」ですかね。人間の体ってわけが分からんもので、そういう構造になってるみたいです。だから便通がいいときは、決まって複雑な気持ちになります。なんなんだよ。

 

そんなジレンマも含めて、人間、くさくさしたときは音楽が一番ですね。これまた最近、実感しました。この世の中には宇宙の星ほどたくさんの音楽が溢れていて、その中で太陽系分くらいの数の曲が人間の心を晴らしてくれるようです。ある人はロキノン、ある人はエレクトロニカ、ある人はジャズ、ある人はポストロック、ある人はコテコテのJ-POP…といった具合に。

あっ、この場合小説はダメですね。いや、読んでる間はむしろ音楽より効果的かと思うんですが、読後の喪失感とか、脱力感がよくないです。ありゃあ~おえんで(方言)。なんにも手がつかない。

 

わたしは高校一年生の頃、「雨が降ればバスで通学する」という自分ルールを持っていたのですが(高校二年生からその習慣はなくなった)、朝の、雨の満員バスっていうのはネガティブの象徴みたいな場所ですよ。みんな最悪な顔してる。立ってる人も座ってる人も俯いて、手持ち無沙汰なのか指をせわしなく動かしているし、ユラユラと同じ方向に髪が揺れて、雨で床がどんどん汚されてく。外は救いがたく仄暗くて、湿っているのに煙い。それでいつも、このバスに乗るわたしがわたしじゃなくても、この景色はきっと変わらないんだと思っていた。

そんなときはイヤホンを耳につっこんで、ひたすら同じ音楽を聞いてました。

カヒミ・カリィの「David Hamilton」。



決して心躍るような曲じゃないですが(逆に鬱が加速しそう)、それが何故だか心地よかった。自分が今強いられているこの馬鹿げた苦行に、宿命的な何かが付されたような気がして。おかげで、あの頃手に持っていたペットボトルのお茶の表面が、ゆらゆら波のように寄せては返していたのを、今でもはっきりと思い出せます。母お手製の少しぬるい麦茶だった。たぶんだけど。

 

昔の言葉で、年が明けることを「年が返る」と言うらしい。一年が巡ってきて、また同じ春に戻ってくるからだそうです。この世界では毎日毎日日が昇り日が沈み、わたしたちはいつまでも同じ太陽を使いまわしている。地球が太陽の周りを回っているから仕方がない。人間は、人を好きになっていつかそれを忘れてしまう。そうしないと不便だからなんでしょう。この世のものはたいてい、「寄せては返す」の繰り返しなのです。

でもそんな中で、素敵な出来事や、音楽や、景色に出会って、逆に手酷い現実に打ちのめされて、踏みにじられて、なんとか自分を作っていくんだろうな。年が変われば人も変わるし、そうなれば同じ太陽でも違って見えるし、違う人を好きになる。バスでの憂鬱も宿命となる。

まあ何が言いたいかっていうと、今がどうであれ、わたしはわたしを気にしないぞ、ってことです。ミスチルも歌ってるじゃん。

「時は無情~な~ほどに~す~べ~て~を洗い~流~してくれる~」

って。

 

というわけで、毎年寄せては返る自己紹介、本気で悩んでいます。できれば返したままもう二度と帰ってこないでほしい。寄せては返すブログ更新日も。あ~、うまいことオチも思いつかないし、迷うことだらけだ。

おつカレーたち

みなさんは、「即死ってこんな感じなんだろうなあ」という眠りを体験したことがありますか?布団に潜り込むまではわりかし意識があるんだけど、それからの記憶が一切ない、っていうやつです。

 

わたしにもついに今週、それがやってきました。今は初潮が来た女の子みたいな気持ちでブログを書いています。いやあ、実際に経験してみるとただただ怖いですね、即睡は。直前までスマホいじってたのに、布団に入った途端からもう記憶がないんですよ。切れかかってる電球が切れるのは世の中の真理ですが、煌々とついてる電球が突然消えて真っ暗になったら怖いですよね。

 

電球と書いて思い出したんですが、これまたそれで怖い思いをしたことがあります。小学校4,5年って、だいたい泊りがけの研修に行くじゃないですか。「海の学校」とか「山の学校」とかね。今となってはなんの研修なんだって思うけど、わたしは当時何も考えないガキだったので、そりゃあもう前々日くらいからワクワクルンルン状態ですよ。当日も妙なハイテンションで地引網して船に乗りました。

でもね、そんなことは別にどうだっていいんです。なんの「研修」でもないんですよ。それよりも女子小学生にとってはもっと大切なことがある………

そう、恋バナ。

恋バナこそがこのイベントにおける「真の研修」、もとい「女の戦い」なんです。

 

消灯を数分前に控えて、「人事を尽くして天命を待つ」武士よろしく、わたしは一人でトイレに行きました。そう、一人です。当時からわたしには「トイレ友達」という概念がなかった。これがもう致命的なミスとなってしまうんです。

この流れでだいたい予測がつくと思いますが、トイレのドアを閉めたら急に電気が消え、わたしは半泣きで用を足しました。夫に先立たれ、通夜会場で泣きながらティッシュを貪る未亡人のごとく、トイレットペーパーを取るのも先住民スタイルです。しかしその時のわたしの目にはものすごい哀愁が漂っていたと思うし、案外霊の父性本能を刺激してモテたかもしれません。なんとトイレの中でモテキが始まり、トイレの中で終わってしまったのです。それからは来てません。モテの電球は二度と灯ってません。外からわけのわからない虫?鳥?の鳴き声が聞こえてくるし、窓は半開きになってるし、エロさ成分0のぬ~べ~かよと思いました(ぬ~べ~は二話ほどしか見たことがない)。

 

あともう一つ、今でも覚えてるのは「おつカレー」の存在です。みなさんおつカレーを食べたことありますか?食べた方は分かってくれるかもしれませんが、これは本気で、めっちゃくちゃ、どんな名店のカレーよりも、ウマい。甘口なんだけどどこかコクがあって、ご飯とルーの比率がまさに黄金比で、肉、じゃがいも、ニンジンのどの音色も突出せず見事なハーモニーを奏でている。おそらく食堂のおばちゃんは、おつカレーで調和の大切さを教えようとしてましたね。今となってはそんなのバカバカしいだけですが。

で、食べ終わるとその食堂でお茶を継ぎ足してもらって、午後からのアクテビティーに備えて……一度思い出せば止まらないですよね~、こういうの。懐かしい。おつカレーって、なんであんなにおいしいんだろうな。

 

思い出の中に、ここまで深くカレーが食い込んでくることってそうそうないです。たぶん今高いお金を払って有名カレーを食べても、そんなものには意味がないんだろうなあ。もうあの頃のあの味には二度と巡り合えない。しかし今、あれと全く同じカレーを食べたところで、わたしはもう「おいしい」とは思えないんでしょう。

 

身長が伸びてくるにつれ、いろんなものを見下せるようになりました。昔のことを思い出してああだこうだと言う資格や、思春期特有の集団意識を「くだらねえ」と一蹴する資格や、昔の自身を恥ずかしく思える資格。もし未来のわたしがこのブログを見たら、「気持ち悪い」と言って泣きそうです。

 

わたしたちはおそらく、そういった「おつカレーたち」を踏みつけながら、積み重ねながら加齢臭を日に日に強くして生きていくんです。そうして、初めて食べたおつカレーの味なんか忘れてしまう。そしてついには、足元のおつカレーたちの存在すら忘れて、自分はあの頃よりもずいぶん身長が伸びたと、おつカレーを食べてる昔の自分を見下して笑うんです。それのどこが「大人になった」と言えるんでしょう。人生はおつカレーの連続なのに。

 

ああ、ここまで書いて、事前に考えていたオチを忘れてしまいました。華麗におとそうと思ったのに(嘘)、わたしの記憶の泉も涸れてしまったなあ。今夜のカレーは、ちょっとしょっぱくなりそうです。

左斜め下を向いている人

桜もとっくに盛りを過ぎ、葉桜の季節になりましたね。わたしが毎朝通る道にも桜が咲いているのですが、通るたびに花びらが少なくなっているように思います。で、「今年も花見行けなかったなあ…」と不甲斐ないような気持ちになるわけです。

 

わたしは今年も花見に行けなかったわけですが(というより一緒に行く友達がいなかった)、ニュースを見る限り、今年もすごい数の人が花見に行かれたようですね。皇居にはたくさんの花見客が集まり、インタビューを受けていたおばさん…いや、ミドルレディーも「桜より人を見に来たみたい」と笑っていました。花見ならぬ人見。わたしなら気が狂って屋台を襲っちゃいますね。

 

これまでが、前置きの前置き。これからが本当の前置きです。

「春よ~遠き春よ~♪」、「さくら~さくら~今咲き誇る~♪」、「さくら~のは~なび~らち~るた~びに~♪」、「桜の季節す~ぎたら~遠くの町に行くのかい~♪」……今ざっと思い浮かべただけでも、桜ソングというのはたくさんあります。そしてその多くが、別れの歌でもあるわけです。

そういえばいつだったか、学校の授業で春の和歌をやったことがありました。その中で今でも覚えているのは、

「もしこの世に桜がなければ、春の心はもっとのどかだったろうに…」

というもの。今調べたら在原業平の歌らしいです。とにかく、それを聞いた当時のわたしは「なるほどなあ」と思いました。なるほど確かに、桜って、見てると何故か寂しい気持ちになる。そういうわけで、昔からわたしは、四季の中で一番春が嫌いなのです。

 

ふんふんなるほど、はるか昔からこの21世紀の現代まで、「春の切ない気持ち」ってのが共通らしいのは分かった。でも、じゃあなんで?って話ですよ。毎年毎年意味も分からず切ない気持ちにさせられては、こっちもたまったもんじゃないですよね。

 

調べてみると、例の在原業平の和歌には返歌があって、当時その場の誰かが

「桜は惜しまれて散るからこそ素晴らしいのだ。世に永遠なるものは何もない

と返しているようです。

そういやどこかで聞いたことがあります。えら~い仏教の教えには、「万物は移り変わり、やがて滅びる」というものがあるらしい。いわゆる「無常観」ってやつですね。春が切ないのは、やっぱこれが関係してるんだろうなあ。ほら、桜ってすぐ散るし。わたしたちはいつもその「無常」を忘れて生きてるけど、咲いては散る桜を見て、ふとそれを思い出すのかもしれません。

 

言いたいことより前置きの方が長い、というのがわたしの文の特徴なのですが……

わたしの希望の桜も、ついにこの春散ってしまいました。そう!西島秀俊さんのフライデーです。

これに対してのわたしを含めたファンの人たちの反応は、千差万別でしたよね。「ショック!」という人もいれば「秀俊が幸せなら…」という人もいて、はたまた「コンパニオンやってる西島秀俊がいたら最高だなあ」というものまで。

 

西島さんと言えば、わたし、彼の横顔が大好きなんですよね。綺麗だけどどこか影があって、壊れそうな儚さがあるんです。これも例に漏れず「無常」と関係がありそう。わたしの情緒は、どうも「無常」の力に操られてるようです。

 

キーワードは「無常」だ。

そう思ってキョロキョロと"人見"をして、気づきました。

 

顔立ちとかに関係なく、「左斜め下を向いている人」はとても美しい。人間として美しいんです。憂い気に目が伏せられて、まつげの影が目の下におちて、耳から肩にかけての曲線が、より洗練される。その人は、振り向くのをためらってるようでもあるし、斜め下の何かを確かめているようでもあるし、汚いものから目をそむけてるようでもある。もう片面の顔が見えるとその真意が分かりそうなものだけど、鼻の影が邪魔をして、こちらからははっきりと見えない。

で、その人がこちらを向いて笑ったりすると、ふっと見惚れてたのを自覚するんですよね。

 

先ほど、桜が切ないのは散る「無常」からだと書きましたが、少し付け加えます。桜が切ないのは、散るのが分かってて、でもそれを止めようがないからじゃないのかな。

左斜め下を向く顔は計らずも、誰もが持つ薄暗い、「消えてしまいたい」という気持ちの片鱗が表れてしまうんです。でもこちらがそれをどうにもできないから、どうしようもなく惹きつけられるんですよ。ほんとに、計らずもね。

 

というわけで、好きな人ができました。なんとなく体重を気にするようになったのですが、そのあまりの数字に、左斜め下に目を背けてしまいます。ああ、無情。

でんぐりがえしで明ける夜

わたしは小学生時代「口が軽くて目が固い」子供でした。言うことも聞かないし、ペラペラ家庭の事情を喋るし、夜も寝つかない。今思うと最低なガキです。焼肉から揚げ定食ハンバーグつき、メインディッシュ特盛ヤケクソメニュー、絶対に育てたくない24時、オールスター呪怨祭のような存在。岡山が生んだヤ爆弾(ヤバくだん)です。

 

じゃあ今はどうなのかというと、前二つはなんとか改善したように思いますが、残念ながら「夜寝つかない」というのは、以前にも増して悪化しているように思います。清々しい朝!なんて夢のまた夢で、呪詛のごとき目覚ましのベルを死者のような顔で止める毎日。もちろん昼間のテンションは高度0.3mくらい。

 

明らかに損ばかりなのに、なぜ寝つかないのか。

というのも、わたしの「目が固い」というのは筋金入りで、わたしの父母もその父母も「目が固い」のです。でもじゃあ睡眠時間が短くてもいい、ということでもこれまたなく………休日は昼まで寝ることが多いんですよね。夜、寝るのが嫌なんです。

 

いろいろ考えてみたんですが、おそらく夜は、何からも制限されないからじゃないかなあと。ヘトヘトになって帰ってきて、わたしはお風呂に入ってもいいし、ゴロゴロしてもいいし、ご飯を温めてもいい。Twitterをしようがドラマを見ようが、夜は誰からも何も言われない。そういう時間を睡眠に潰すのが損な気がしてるんですよね、たぶん。

 

でも、しばらく長い休みがとれたりすると、なぜかどうしようもなく「束縛されたい」と感じます。どこかの集団に属していたいし、ため息をつきながら陰鬱な目つきで満員電車に乗りたい。

ごくまれに、遠足や修学旅行に行きたいと感じることもあります。寝る間も惜しんで恋バナして、トイレのタイミングもお土産を買う時間も制限されて、それでも楽しい時間を過ごしたい。

とにかく、縛られてないぐうたらな自分を情けなく思っちゃうんですね。

 

そんなつらい夜は、布団の上ででんぐりがえしをします。何度も何度も、端から端を行ったり来たり。

そうすると、やがて目が回って、「わたしはさっきから何やってんだろう。疲れたな…」と感じるんです。ここが一番の狙い時。ラスト一本、今の自分ができる精一杯のでんぐりがえしをして、立ち上がる。そしてそのままカーテンを思いっきり開けてみる。大抵夜が明けてます。やうやう白くなりゆくビルぎはをしばらく眺めていると、でんぐりがえしで未来にタイムトラベルしたような、甘くて不思議な気持ちになるんです。夜の馬鹿げた疎外感なんか消え失せて。

 

これ、割と本気で言ってて、自殺しようとしてる人を三人くらいは救えるんじゃないかって思ってます。

でも、ベッド派の人はくれぐれも床でやるように。軌道がずれて頭から落ちたら、でんぐりがえ死しちゃいますからね。