ceroの「ロープウェー 」を聞いた

 あらゆる紙を破り捨てるような人生だった、もし将来の可能性みたいなものが一つひとつ紙に記されているとするならば。冗談半分で、力なく両手をそれぞれ逆の方向にねじると、紙はわたしの指先であっけなくビリッと音を立てる。そうしてもはやただの紙くずとなり、床に雪のように積もったそれらを見て、初めて「破けてしまった」と自覚するのだ。もう元には戻らない。だからこうして深夜に、誰も見ていないブログで人生について書かなければならなくなる。

 ceroというバンドがあって、わたしは彼らの音楽が好きだ。わたしが人生で一度、しかも修学旅行でしか行ったことのない東京で彼らは活動しており、その曲調はとてもおしゃれでけばけばしくもなく、聞くと都会の生活が耳から流れ込んでくるようであった。そして洗濯機の中で起こるような音楽の渦にわたしは巻き込まれていき、いつの間にか体にこびりついた田舎の泥を洗い流してくれる。ceroはわたしを勘違いさせてくれるのだ。

 そんな彼らがYouTubeに新しく曲をアップしたと聞けば、恥ずかしながらCDを購入していなかったわたしには聞く以外にやるべきことなどない。早速イヤフォンを差し込み再生ボタンを押し、しかしながら流れてきた音はこれまでのceroのそれとは同じようでいてまったく異なっていた。

 正直なところ、わたしは音楽についてほとんど無知である。熱心に追いかけ続けているジャンルがあるわけでもなく、楽器が弾けるわけでもなく、専門的な知識などひとかけらも持ち合わせていない。だからこの「ロープウェー」という曲が他とどういう点で違っているか、どの程度違っているかなどということは一言も説明ができないのである。ただ一つだけ分かるのは、いつもより歌詞が大きく響いてきた気がするということだ。

朝靄を切り裂いてロープウェーが現れる

すれ違うゴンドラには人々

気恥ずかしげにその手を振って

一瞬で霞に消えて視えなくなる 

  この部分を聞いて、鮮烈なイメージが靴下を裏返すように溢れてきた――今でもはっきり覚えている、幼いころの家族旅行で乗った、神戸の布引ハーブ園のロープウェーからの景色を。あのときのわたしは母親の隣に座り、父親が真向いにいて、両親どちらかがくれたブルーベリー味の飴を、鼻水と一緒に涙まですすりながら口で転がしていた。ぐんぐん遠のいていく神戸の街がわたしにはひたすら怖かったのだ。ロープウェーとはいえたかが紐につるした箱。真下に生い茂る木々の間に落ちれば、われわれ家族の死体は、そこに住む巨大な怪物に丸のみされて永遠に誰からも見つからぬような気がした。

 当然のことながら怖い、怖いと両親に叫んで訴えたが、娘がそんな状態にもかかわらず、彼らはお気楽に「怖いか~」とニコニコしていた。そうする間にもどんどん高度は上がっていく。しまいには父親が完全に面白がってしまい、泣くわたしの顔をにやにやと見ながら体を激しくゆすってゴンドラ全体を揺らし始めた。ぶどうの実のように揺れる箱、泣き叫ぶわたし、爆笑する両親。正気の沙汰ではない。わたしは、このとき初めて両親に対して本気の憎悪を覚えた。

 しかし結局最後までゴンドラは落ちず、森の怪物も一度もニュースにならぬまま、わたしはもうすぐハタチになろうとしている。「ロープウェー」の一節がこれらの情景をはっきりと思い出させたとき、わたしはなんだか猛烈に泣けてきてしまった。こぼれたのは、感情的な涙が出る要因――恐ろしさや悲しさ、喜びなど――がすべて混ざり合ったしずくだった。わたしはあれから何枚の紙を破ったのだろう。得たいもののために、どれだけのものを捨てていったのだろう。それでも叶えられなかった希望を、どうやって忘れていったのだろう。そうして過ぎ去っていったものたちが、ときおり生温かい寝息をわたしに吹きかけてくる。痛みや、不快や、幸福を抱きながら、「人生が次のコーナーに差し掛かって」いく。わたしは、すれ違うゴンドラの中にあの日の泣き叫ぶ自分を見、あっと思ったときにはもう、靄の中に消えてしまっているのだ。

 今でもロープウェー事件についてはときたまやり玉に挙げるのだが、当の父親も母親も「そんなことあったっけ?」の一点張りである。しかも最悪なことに、二人とも心の底からとぼけた顔をするものだから、こちらとしてもそれ以上言う気にはなれなくなってしまう。次に家族で乗ったときには、復讐が彼らを待っているはずだ。

 

※歌詞の引用がまずかったらすぐ消します。

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力士イズム

最近、夜布団に入ると、昔のことばかり思い出してしまう。その大半はいわゆる黒歴史で、「ああ、あんなことやるんじゃなかった」とか、「少し成長した今のわたしがあの場にいたら……」とか、そういう意味のない妄想を何度も繰り返している。その一方で、将来のことは一年ぐらい先のことをぼんやりとしか考えておらず、「これからどうするつもりなの?」などと聞かれても返答に困ってしまう。でも不思議なもので、「まあ、なんとかなるっしょ!!!!」と大声で叫び、アフリカの少数民族のような踊りを軽くすれば、周りはそれ以上言及してこないものだ。これはわたしが身につけた数少ない処世術の一つで、かなり効果があるのでぜひ一度試してみてほしい。マサイだ。マサイになりきるのだ。マサイ族に踊りがあるのかは知らないけど、多分あるんじゃないかな?と思う。

 

マサイについてブログは書けないので(有名な超人並の視力についてしか知識がない)、話を戻します。

とにかく、わたしは自分の悪質さに結構敏感だって話。その中でもとびきりなのが、最初に書いた「根暗な自省厨」な面と、あと「忙しい忙しいお化け」な面だ。ぶっちゃけ、自分を自分で忙殺しているのである。わたしは昔から予定をギッチギチに詰める方で、それなのに「忙しい忙しい」と嘆きまくる、はっきり言ってメチャクチャたちの悪い人間だ。忙しい自分に、悦、入りまくりなのだ。5連休とか週末は最高なんだけど、夏休みとかなんやら休みとか、あの「長い暇」に耐えられなかった。本当にわたし、小学生時代の夏休みとかはどうしてたんだろう?学校ではまあそれなりに友達がいるけれど、実際に休日に遊びに行くような友達はまったくいないという人種だったため、両親に「大丈夫?」と言われた記憶はある。今考えると泣ける話である。

 

たぶんなんだけれど、わたしは「自省厨」だから「忙しいお化け」なのだ。まず、このブログを書くことも自分を振り返る作業でしかない。でも同時に、「自分の内面を見つめている自分」を他人に見てもらいたがっている。「自分を追い込むストイックな自分」も。言葉は汚いけど、公開オ……やめます。

 

で、そんな自分を、もっと言やあ他人も、バッサリ切り捨てるのが本当に高尚なことなのか?ってな話です。そういう「俗っぽいキショさ」を意識して殺していけば、本当にキレイな人間になれるのか?大勢の前で粗相をしたり、恥をかいた自分や他人は、四捨五入すると本当に自分と無関係のキモ俗物になるのか?

 

少し前はわたしもバシバシ切り捨てていた。これは無理だの、あれは無理だの、自慢をする人は嫌いだの、目を見開いて写真に写るのは逆にブサイクになるからやめろだの、イヤミな姑のごとき厳粛さでもって、自分に他人に、節制を求めていた。

でもそんなアレコレは、よくよく見ていたら「別にいいじゃん」と思うようなことばかりだったのだ。別にいいじゃん、自慢しても。自分なりに頑張ったんだし。はっきり言ってわたしすごいし。目なんかどんどん見開きゃいいじゃん。やっぱ目だよね、肝はさ。やっぱ大きい方がいいよね。大は小を兼ねるって聞くし。エビちゃんとかもさ、そういう風に写ってる方がかわいいしね。OKOK、全然OKだよ。

今まで敏感に目くじらをたてていた「悪事」は、適当にうなずいてしまえばもう悪事ではなくなってしまう。人を殺した、みたいな、絶対的に悪いことではないんだから。結局は無理に肩肘張って、どうでもいいことまで糾弾して、自分も他人も縛るだけになる。キレイな人間とは程遠い、ただの偏屈ババアだ。

 

この間、服を全部洗濯してしまっていたときに、運悪くどうしてもコンビニに用事があったので、思い切ってジャージで行った。ダルダルのヴィンテージモノだ。最寄りのコンビニまでの数分間、かなりの人とすれ違った。でも、別にいいじゃん、ダルダルのジャージでも。わざわざ自分を見下ろして、わざわざダルダルジャージを確認して、すれ違っている人の顔をチラチラ見て、自分から進んで「恥ずかしいーーッッ!!!」と叫ぶ不幸顔よりも、前を向いて堂々とコンビニに向かう横顔の方がカッコイイものじゃないか。

 

その晩には、力士がいっぱい出るテレビ番組をやっていて、そのふくよかな外見とは裏腹の身体能力を視聴者に見せつけていた。まげ姿でバク転を決めるシーンがあって、思わず見惚れてしまったほどだ。もはや誰が力士にデブなどと言えるんだろうか?その肉体はしなやかな筋肉でできているのだ。多くを食べ、それらをしっかりと自分の血肉にしているのだ。生きとし生けるものとして、最高の生き方ではなかろうか。

 

こうなったら、わたしも精神的力士になってやります。なんでも一回受け入れてみます。そりゃ日曜の晩とかには「死ね」とか言うかもしれないけれど、金曜だからハイになってこんなブログを書いているのかもしれないけれど、まずは3日くらいやってみます。それで飽きたらまたこのブログに悪口を書きます。で?っていう話なんですけど、自分のためのブログなんでご容赦ください。困ったらマサイ、そして力士。達観なんか全然していないけど、毎日ニヤニヤするくらいの余裕はできました。

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和田アキ子とショッピングに行きたい

最近Twitterのフォロワーさんや、フォロー外だけど憧れてる方々のブログを読むことが多くて、その度に「すごいなあ」と思ってしまう。なんというか、もう全然ちがうのだ。趣味の話してるときの顔と。そういう一面を見るとメチャクチャ親近感を覚えて、なんだかもう昔からの友達みたいで、多分実際に会っても「よっ」って感じで挨拶できるんだろうなあとか考える。わたしの勝手な妄想だけど。

 

いつもいつも、そんなことばかり妄想してしまう。はっきり言って、わたしは妄想が好きだ。親も同様に好きなようだ。親譲りの妄想族で子供の時から妄想ばかりしている。

というのも、わたしには彼氏がいる。もちろん、頭の中で。妄想の中の彼氏は優しくて、非凡な才能を持っていて、それを鼻にかけず、わたしに新しい世界を教えてくれる。アメリカ留学を経験している。身長は平均よりだいぶある。ベースかサックスができる。パソコンをするときだけ眼鏡をかける。出不精なのが玉に瑕の、同い年の好青年。

わたしは、人から彼氏がいないのをバカにされるたび、その男の子のことを考えた。その男の子がいたずらっぽくささやくのだ。「俺のこと、みんなにバラしちゃいなよ」と。「ダメだよ」とわたしは身をよじる。「もしバラしたら、ライバルが増えちゃうじゃんか」。そんな無生産な会話を繰り返して、二人でニヤニヤするだけの夜を過ごすのだ。何度も何度も。

 

でも、そんな人いるわけない。現実のわたしには彼氏なんかいないのだ。好きになってくれる男さえ、いないのだ。容姿も全然自慢できないし、キャピキャピすることも、フリフリ花柄の持ち物を持つことも、まったく我慢ならないのだ。「うるせえ!!」とか大声で言っちゃって、一般的にはおもしろくないことにもいちいち「ギハハハハ!!!」と笑ってしまうのだ。女友達の前でも、好きな人の前でも、どうでもいいおっさんの前でも、それは同じ。なんだか、女の子のピンク色のフワフワな世界に、自分がフワフワな服を着て、フワフワの喋り方で女の子座りをしているのが、滑稽に思えて仕方がないのだ。

 

わたしの母親は真逆で、いい意味でも悪い意味でも「女」な人である。わたしは小さいころからいわゆるショッピングに誘われてきたし、毎回その誘いを断った。図書館か本屋にしか行かなかった。とは言え本を読んで勉強する賢い子どもだったというわけではなく、ただ誰とも喋りたくなかっただけなのだ。でもさすがに申し訳ないと思って、たまに母と一緒に街へ出掛けても、ハンガーに掛けられたオシャレな服や、かわいらしい食べ物を見ると、もう目の前がくらくらしてダメになる。ぎらぎらしている。せいぜい二時間くらいがやっとだった。「もう帰ろう」と言うと、母はいつも寂しいような、残念そうな顔をした。

 

今思うと、申し訳かったなと思う。わたしが住んでいる地域の夕方のニュースでは、毎日新生児とその親を紹介するコーナーがあって、なぜかこれがたまらなく好きでよく見ているんだけど、女の子を生んだ母親は必ずと言っていいほど「一緒に買い物をしたり、オシャレを楽しみたいです!」と嬉しそうに言うのだ。それが一部の母親にとっての、女にとっての、夢みたいなものであるんだったら、わたしはそれをギッチャギチャに踏みにじることをしてしまった。一緒に外食をすることも、「面倒くさい」と一蹴してしまった。

 

そういう自責の念でいっぱいの、心身共にブサイクな日々を送っていたところ、今週の日曜日にあった「アッコにおまかせ!」で、和田アキ子さんがボソッと呟いた言葉が忘れられなくなってしまった。

 

「たまに親に申し訳なくなるよ。もうちょっと女らしく成長しておけばよかったって。そういうのない?」

 

ああ、この人とショッピングとかに行ってみたい、と思った。

こういう風に芸能人の言葉をブログに取り上げるのって、すごくジジババ臭くて苦手なんだけど、それでもやっぱり書かずにはいられなかった。わたしとアッコ、女になりきれなかった女水入らずで、女の子女の子したビルにショッピングとかに行って、カフェとかでシフォンケーキを頼んで、「これで合ってるのかな」「こんなことして大丈夫なのかな」とか言い合いたい。「クッソ、腹膨れねえ」とかぶつくさ言ってそのまま居酒屋に直行したい。「やっぱワシらには無理やったな」とか笑い合いたい。散々騒いで別れた後、こっそり薬局に行って、新しい春色の口紅とかを買ってみたい。好きな人の前で、ちょっと髪を耳にかけたりしてみたい。

それくらいのことは、許されるんじゃなかろうか。デブスのわたしでも、豪快なアッコでも。

というわけで、アッコ、ワシとケー番交換しようや。

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タトゥーの入ったキャンドル

冬が好きだ。毎年毎年この季節がやって来るたびに、びっくりするほど厳しい寒さに身も心も縮こまってしまうけれど、それでもやはり「好きな季節は冬」と言ってしまうのである。しかし冬が好きな人と出会うのは、結構稀だ。少なくとも個人的には。

一時期、結局後悔するから冬と言うのはやめようと、「秋」と答えていたことがある。秋は十分魅力的であるので理由にも困らず、適当にでっち上げることができる季節だったし、微笑みながらそう答えると、どんな人からも大体同意の声が上がるのだった。その後の会話も心なしか盛り上がった。というより、会話の一部に盛り込むのにちょうどいい季節なのだ、秋は。

でも、冬が巡って来てどんなにその寒さに慄いていても、自分が本当に好きなのは、やっぱり冬なのである。寒いからという理由で切り捨てるのにはもったいないほどの、そこには深い憂慮があるような気がするのだ。どの季節よりも含蓄がある顔をしている。柔らかい繭が浮かんでいるよう感じ。どんなに言葉を尽くしても、うまく説明できない魅力だ。

 

そんな冬のせいなのか、自分をとりまいている環境のせいなのか、最近真面目にものを考えるようになった。今回のブログがいつもと毛色が違うのはそのせいだ。前回までは読んでくれる人を意識していたけれど、今書いているのは全く逆で、本当は誰にも読んでほしくない。それでも書かずにはいられなくて、公開せずにはいられないのは、やっぱりどう足掻いてもわたしが人間だからである。純粋な自己顕示欲だ。多分数年か後にこのブログを発掘したら、「なんて青臭いんだろう」と恥ずかしく思うだろうな、と分かっていながらも書いている。

 

わたしはまだまだ青二才で、もちろん評価する側ではなく評価される側にいるけれど、そのせいで最近どんどん自分が、もっと言うと他人が分からなくなっている。なんだか、キャンドルになった気分なのだ。匂いに飽きられてフッと消される瞬間をたまらなく恐れている。

それでもスーッと全部見えてしまう瞬間というのが、たまにあるのだ。自分の置かれている状況や周りの人の気持ちが、非常に客観的に、小説を読んでいるみたいに分かるときがある。そうだからこそ、自分が何をすべきなのか、ますます分からなっていく。……鬱屈。やめよう。

これ以上書くと個人的な愚痴になってしまうので、やめる。その代わりに、季節の話をもう少し続けたいと思う。

 

自分の中には、ちょっと憎らしい気持ちも伴った、確固たる冬への愛(といってもいいもの)がある。だけど結局口では、秋と答えている。そうなんですか、わたしも好きなんです、秋が。食べ物もおいしいしねえ。そういえばこの間そこにできたお店、おいしかったんですよ……

別に秋が嫌いなわけじゃない、むしろ好きな方だけど、そう言うたびにどこか空漠とした気分になるのだ。

 

そんなとき、タトゥーを入れたくなる。十円玉くらいの大きさのものを内ももに入れて、誰にも見せずに、自分もその存在を忘れてしまうような。でもたまに思い出すような。そういう道路標識のようなものがたまらなく欲しくなるのだ。

でも、それが一番虚しいことなのかもしれない。タトゥーが入っていてもいなくても、結局キャンドルはキャンドルで、消されずともいつか全部溶けていってしまうから。それでまた新しいことが始まる。年末のこの季節になると、特にそういうことを強く感じるから、やっぱり冬は罪深い季節である。

 

今の自分には確かに「ゆらぎ」みたいなものがある。いつもうんうん言いながら書いているブログだけど、今回はいっそう遅々として進まず、しかも暗い話題だったので、書くのに何時間もかけた。雲をつかんでいるみたいだった。でも、数回に一回くらい、自分の気持ちを吐き出すだけのブログを書くのもいい。

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土踏まずの曲線美

書きたいことと時間を見つけたので、久しぶりにブログを更新してみたいと思います。

それにしても、本当に本当に、時間が過ぎ去るのは早いものですね。前回ブログを更新したのが、7月の中旬。そして今この記事を書いているは、9月の上旬。いやあ~怖い。「この間更新したしまあいいか……」であれよあれよという間に一か月以上ですよ。今までわたしは一体何をやっとったんや、と自分の三日坊主精神に呆れてしまいます。

思い返すと、サッカー日本代表の試合がある日は大体更新してるような気がする。ゴール前での流れるようなパスワークなんかを見ちゃうと「何か書くかあ」と思えてくるんですよね。まあ、パスサッカーほど精密な文章は一生かかっても書けないんですが……

 

自分で言うのもなんだかいやらしいけど、わたしはサッカーファン初心者です。「19○○年の○○の試合で決めた○○のヘディングシュート」とか、「後半○○分の○○の動き」とか、そういう単語はまだ使えません。ただ楽しいから、とかいう原始人並みの理由でもって、代表戦があれば見るというスタイルをとってます。果たしてそんなのファンと言えるんだろうか……ああ、言えないんだろうな(笑)

昔、好きだった男の人がサッカーファンだったことがあって、その頃はいろんなリーグの試合を見てました。現金な女ですよね。今思うと恥ずかしい。

 

なんとなく思うんですけど、「これが好きだ!」と胸を張って言えるものって、もはやその人にとっては”エンターテインメント”じゃなくて、一つの”個性”なんですよね、きっと。誰かに好きなものをけなされたら、まるで自分自身がけなされてるような気になりませんか?これってわたしだけなのかなあ。「これがわたしの大好きなものです」と恐る恐る懐中を見せるほどの相手に、普段は盾持って刀構えて立ち向かいませんよね。だから急に否定されると、柔い部分を突かれてかなりへこんじゃう。

 

でもこのご時世では、そうやってへこむことさえなかなかできない気がする。ネット上で「これが好きです!」って言うと、もっと真剣なファンの人もいるし、それが大嫌いでたまらないっていう人もいるんですよ。だからただなんとなく「好き」とは言えない。それになぜか「これ嫌いなんですけど~」っていう声の方がよく通る気がするんですよね。そういう場合、そんなこと言う人に対して「なんやねん」とも思いつつ、「これを好きだったらダメなのかなあ」と自信がなくなってしまう。

そうやってわたしたちは、いや、わたしは、どんどんのっぺらぼうになっていくんじゃないかってたまに感じるんですよ。何が好きでも何が嫌いでも自由なはずなのに、人の顔色とか自分の見てくれのことを考えちゃうんだなあ。

 

あ~ダメだ。愚痴になっちゃった……

えっと、まあ要するに、何をするにも自尊心が資本だなってことです。これ書く前に調べたんですけど、自尊心って「見て見て!すごいでしょ」って気持ちじゃなくて「他人の評価で自分を決めない」って気持ちなんですね。恋愛や仕事において、そういう自信ってやっぱり重要だなあと、最近になってやっと分かった気がします。そういう人って何に関しても潔くて、捨てるべきものはすぐ捨てられるし、捨てるべきじゃないものは絶対に抱え続けるんですよ。本当尊敬するし、憧れる……

 

でも実際問題無理じゃないですか?そういう気持ちを持つのって。「自分なんて頭もよくないし、顔もよくないし、性格もよくないし、それを改善する術も持ち合わせてない」ってどうしても思っちゃう。で、人からちょっと否定されたこととか、人から選ばれなかったこととかを思い出して、より深く深く自己否定に走ってしまう。

 

そんな時は、土踏まずを横から斜めから、とにかくじっと眺めるんです。自分の足で、唯一地面を知らない部分。でも歩くのには必要な部分。その「欠け」の曲線って、びっくりするほど美しいんですよ。どことなく女体ような柔和さがあって、でも数学的な揺るがなさもある。この間それを発見して、「わたしの体にこんな美しい所があったんだなあ」と素直に感動してしまいました。

逆に、何もかもが同じように満たされている偏平足は、柔軟性がないしつまらない。それを羨んで自分を傷つけるのはもっとつまらない。最近そういう風に思えるようになりました。というより、言い聞かせています。そうすると、少しだけ「自尊心」がこっちに歩みよってくれる感じがする。

 

 

はあ~っ……もっと書きたいんですが、このあたりで筆(キーボード?)を置きたいと思います。すみません。エヴァンゲリオンを見ていて、この記事を書くのに何時間もかかってしまい……本当はもう一つものを書く予定だったんですけど、もうテッペンを超えたのでやめときます。

ここまで読んでくださった方、もしいらっしゃったらありがとうございます。次はいつになるか分かりませんが、そのときもよろしくお願いします。

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オンナの集団的自衛権

お久しぶりです!

このブログを更新するの、いつぶりなんだろう?そもそもブログとして成り立ってるんやろうか?自分でも首をひねりながら、書いてます。今回は手短にいきます。

 

実は今日、わたしにとって一番地球が自転してほしくない日曜日でした。前回祭りについて書いたような気がしますが、今日はそれのアレの前日なんです……

 

そう、W杯決勝の前日!

W杯が終わる前日!

 

ついに来てしまいましたこの日が……途中からは忙しくて全試合しっかりとは見れてないんですけど、やっぱりあるのとないのでは気分が違うじゃないですか。浮かれるし、楽しいし、話題が尽きない。そのパワーは、あまりサッカーに興味がなかった我が家でも毎回勝者予想をしてしまうほど(ちなみに、わたしはドイツが優勝すると思う)。

 

まあそれもそうなんですけど、個人的にここ数週間はいろいろありました。「千歩進んで千歩下がる」ような、まさに激動の日々です。結果的にプラマイ0なのかもしれないけど、身体には時空を超えてきたような疲労感が残ってしまいました……って、いっぱい鍵をなくしたり、突き指したりしただけなんですけどね。

 

で、ここからが本題なんですけど、「身体には時空を超えてきたような疲労感が~」とかって自分で自分を書くの、めっちゃきしょくないですか?

 

突然ですが、わたしは一人称が「アタシ」の小説はあまり好きではありません。だいたい女性作家が書いてて、「仕事と結婚、どっちをとればいいの~~!?」っていうやつとか、「毎日孤独なの。アイツのイヤホン舐めたい」っていうやつです。うまく言えないけど、汲み取ってください。

そういうの見るたびに、「うわ~ッ!」ってなっちゃうんですよね。あくまで個人的にですけど。なんでだろう?

 

たぶんそのヒントがあると思われる、わたしが先ほど感じた「時空を超えてきた疲労感」的きしょさについていろいろ考えました。

 

たぶん、きしょい理由は「自分自身を特別な領域にすべり込ませよう」みたいな意識が見え隠れするからなんだろうと思います。

たとえば自撮りの写真とかってだいたいきしょい。別に顔がどうって話じゃなく、承認欲求を満たすために自撮りをして加工して、それをSNSに上げるっていう精神に「ああ……」と思う。

 

きっとそういう小説もおんなじなんだと思います。で、その手段に「オンナ」を使ってるのがまた苦手なポイントなんです。美容とか、結婚とか、出産とか、女の幸せとか、そういうオンナのアイコンを強く意識したオンナの主人公が、世間を皮肉ったり、オトコを皮肉ったり、自由奔放に飲んで騒いじゃってたり。あるいは思春期真っ盛りのオンナが詩人ぶって、芸術性の高い愛を育んじゃってたり。

 

たとえば(ないだろうけど)それを男性が読んだらどうなんでしょうね。「女ってこんななのか~!めんどくせえ!」と思われるのでしょうか。

わたしがこんなネチネチネチネチ姑みたいなブログを書いてるのは、そこなんです。男も女も集団的自衛権を持ってて、異性に批判的にならざるを得ない瞬間っていうのが必ずやってくる。2ちゃんねるとかで、ブス批判とかしてる人をよく見るのはそれだと思うんです。

そんな小説読むと「わたしはこんなじゃない」と思いながら、「分からんでもない」とも思える場面ってどうしてもあって、その度に、小説の主人公に自分を投影してるわたしも「自分自身を特別な領域にすべり込ませよう」って思ってるオンナだっていうのを痛感して、オトコの集団的自衛権でボコボコにやられてしまうんじゃないかってビクビクしてしまうんです。もし対象がわたしじゃなくても、自分が一番使いたくなかったオンナの集団的自衛権を使ってしまって、そんな自分がまた気持ち悪い。

 

わたしは普段地味な女なんで、余計そんなことを考えてしまいます。オンナの集団的自衛権を使うことで、自分が小説の主人公と負けず劣らずオンナであることを感じるのが、かなり嫌だ。

 

う~ん、自分でも何書いてるのか分からなくなってきました。愚痴っぽいし鬱っぽいし、最初はこんなん書くつもりじゃなかったのになあ……やっぱり「時空を超えてきたように」疲れてるのかもしれません。のわりに手短でもないし。

オチがついてないけどなんだか疲れちゃったんで、ここらで一旦箸……じゃない筆をおきますね。もしここまで読んでくれた方がいらっしゃるなら、ありがとうございました。次いつ更新するかは分かりませんが気長に待っててください。

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まつりの後の事

わ、わ、ワールドカップだ~~~!!!

日本の初戦を間近にひかえて、わたくし非常に緊張しております。寝たいのに寝れない。というかまだお風呂にも入れてない。というわけで、久しぶりにブログでも書かせていただこうと思います。

W杯。もちろん緊張だけでなく……そう、高揚感。胸がドキドキざわざわして、夢の中のように足がフワフワして、まさに「祭りが始まるど~!」といった感じ。大会自体は金曜日に始まっていて、土曜日もいくつか試合を見ていたら一日が終わってました。わたしは恥ずかしながらサッカーファン初心者なんですが、素晴らしいゴールをたくさん見れるのはやっぱり幸せです。最高です。嫌なことなんか全部忘れられます。

 

しかし、本命の自分の国の試合となるとそうはいきません。相手が決めたゴールを、「うわあ~キレイだな~」なんてニコニコ見てられないわけです。エンターテインメントとしてのW杯が、食うか食われるか、弱肉強食、そんな戦場の様相を呈する瞬間が、今なのです。はあ、めちゃくちゃ緊張する……さっきからミスタイプも多いし、W杯なんてどうでもいい人には本当にどうでもいいし、緊張する話をまた始める気だし、マジつまんないんで今日は書くのやめたほうがいいかもしれないですね。いや、まあ書くけど。

 

今気づいたんですけど、緊張にも二種類あるんですね。不安からくる緊張と、期待からくる緊張。暴君みたいな人に怒られる前なんかは前者、修学旅行の前日なんかは後者なんでしょう。そういう風に考えてみると、なるほど緊張ってめちゃくちゃ重要。わたしはすぐ「めちゃくちゃ」とか「本当」とか「マジ」とかを冠につけてしまうんですが、今回は本当に本当に心から、重要だと思います。

なぜ重要かというと、それを起点に良くも悪くも人間性が変わってしまうから。不安からくる緊張からフッと解放されたときに、ものの見方が少しちがっていた、なんてことありませんか?「涙の数だけ強くなれるよ~」という某曲にもあるように、道理にかなった怒られ方をしたらちゃんと反省できるし、不条理になら卑屈になってしまう。大勢の人の前で喋って成功したら箔がつくし、そうでないならひきずってしまう。それが単なる平凡な一日になるかもしれないし、逆にその後の人生を大きく揺るがすものになるかもしれないんですよね。

 

ここでポイントなのが、緊張が「適度ですぐに解放される」ものであるということ。緊張は大いに結構。でも緊張のしすぎは体に毒だってのは確かです。

 

確かに重要なんだけど厄介なのが、期待からくる緊張。こりゃひどい。ないほうがいいかもしれない。

思い出してみてください。花火が打ち終わって、暗闇と湿気がまとわりついて、屋台は香ばしい香りを残したまま店じまいをし、名残惜しそうに手持ち花火を取り出す大学生の声が遠くで聞こえ、河川敷に提灯がぼんやりと浮かぶ光景。もしくは駅のプラットホームに並んで、代表の人が引率の先生にお礼のあいさつをして、お土産やキャリーバックを気だるげに運びながら解散して、家に帰ってぼーっと友達との写真を見返す光景。

 

「これが情緒というものだ」と言われればそれまでです。失ってしまったものの残り香を嗅ぎつけるようなことが、素晴らしい芸術作品を数多く生み出してきたのは確かなんですから。でも、あまりにつらい。つらすぎる。こんな気持ちになるなら「祭り」なんか最初からなければよかった。

毎回そう思います。でも懲りずにわたしはW杯を見てしまう。緊張を紛らわすためだけにこんな説教くさいブログを一時間以上も書いてしまう。そういったバカらしさ加減は、なんとなく恋愛に似てる。

 

じゃあ祭りの後って、恋愛で例えるとなんなんだろう……う~ん、失恋?いやあ、なんだか違う気がする。

言うなれば、何年も前の相手を思い返すときなのかも。そういう人って、取り返しのつかないところまで遠くにいってしまってるじゃないですか。死んでもないのに。

ううん、でも違うかも……ああ、こういうとき、恋愛の経験があまりないのがバレてしまいますね。気の利いたことがまったく思い浮かばない……

 

書きたいことがたくさんあるんですが時間がありません。日本と同じグループのコロンビアとギリシャの試合、もうとっくに始まってるし。

芋づる式にこんなことばっかり考えてしまうの、あんまりよくないんでしょうかね?そういえばわたしは昔から……って、ダメだ。どこかで止めないと。

 

すみません、例のごとく長くなってしまいました。どうもわたしはブログで真面目な話をしないと気が済まないみたいです。Twitterでロクなこと書いてないからかなあ。でもブログでも何が言いたいのか分からないけどなあ。

えっと、そろそろW杯の試合をちゃんと見たいんで、オチがついてないけどこの辺で失礼します。ここまで読んでくれた人、いないだろうけど。もしいたら感謝です。ありがとうございました。

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